ニュートン力学において、なんとなく質点の座標が直接観測できる量で、速度は間接的に求める量、というイメージがある。でも正準方程式的に書けば p も q も対等な力学変数であって、座標だけを観測可能量とするのは変な気もする。考えていると古典力学でも「観測量って何?」となってくる。
量子論において状態を壊すことなく情報すべてが観測できてしまうと、量子状態のクローン不可能性と矛盾する。古典論ではこういう矛盾が起こらない…冷静に考えるとそれほど自明ではない気がするが、そうであれば理論を構成するとき「何が観測量か」に神経質にならなくてもいいわけだ。
しかし、依然として「観測量って何?」という疑問がなくなるわけではない。厳密に古典力学に支配された世界があり、力学変数のコピーが自由にできたら、ある種の実数計算が厳密にできることになる。チューリングマシンを超える機械のできあがりである。それは許されるのか?
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