人の心や感情などの実体が脳の電気信号や化学物質であることに、私はあまり心理的障壁がなくて、子どものときから自然に受けいれていた。たまに相手もそう理解している前提で話してしまい、「えっ」という反応をされたことが何度かある。
誤解されたくないのは、実体が電気信号や化学物質だからといって、ヒトの感情が無意味でくだらないものだと思っているわけではない、ということである。その二つは互いに独立な話だし、後者に普遍的な尺度はない。
ふとこのコピペを思い出す。
あのさー、「アニメはただの絵」なんて言葉には何の意味もないわけよ。当たり前すぎる。
ただの絵って、そりゃ絵だよ。そんなの誰にでもわかるって。
これは言い換えるとね、例えば友達が彼女の写真を見せてくれたとして、
「これはただのインクの集合だ」と言ってるのと同じなわけよ。
もっと言うと、友達の恋人を指差して、「こいつはただのタンパク質だ」と言ってるのと同じなわけよ。
別に間違ってないよ。写真はインクだし、人間はタンパク質だ。でもそれがなんだっての?
インクだから感情を抱くのは間違いだ、タンパク質だから好きになるのは間違いだ、とでも言うの?
それはちょっとバカすぎるね。バカすぎる。「アニメはただの絵」ってのはそういうのと同じなんだよ。
好きになるのは人格としての、存在としての彼女だろうが。物理的構造なんてどうだっていいんだよ。
そんな当たり前のこともわからないわけ?
似たような話に、ヒトの物理的大きさと宇宙の大きさを比較して「私の悩みなんてちっぽけなものだ」と考えるというものがある。自然の雄大さに触れてそういう感情が起こるのは私も分かるし、それで気持ちが前向きになるのは素晴らしいことだと思う。ただ、悩みの大きさと身体の物理的スケールには何の関連もない。もしヒトの身長が富士山くらいだったら悩みも 10^10
倍 (体積比) 深刻なのか。もしミジンコサイズの知的生命体だったら存在価値も 10^-10
倍 (体積比) なのか。そんなことはない。
自分がこの地球上で物理的に小さな存在だからといって、その悩みがちっぽけなものだということにはならない。自分の悩みの価値なんて、自分が決めればいい。なんか今ちょっと恰好いいことを書いた気がするが話をまとめるために適当にひねり出しただけだし、この文章はしなければいけないことからの逃避行動で書かれた。