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⟨ 2024 | 2025 | 2026 ⟩
専門的な内容を一般向けに解説した書籍って、自分がよく知っている分野のをちら見すると「読者が素人だからって内容を誇張しすぎではないか。もっと地に足のついた説明をした方がよいのでは」などと微妙な感想を持つことが多いが、あまり知らない分野のを読むと「ほえー。面白いなー」と素直に感心してしまう (誠実に書いてあるのかもしれないが)。
Web で好きなコンテンツの一つは日記・雑記的なやつである。絶滅したと思われている節があるが、検索にかからないだけで細々と書いている人はけっこういる。これは最近気づいたことだ。
見つける方法はない。
「本音と建前を使い分けよ」という人をみるとたじろいでしまう。もちろん思ったことを全部そのまま口に出していいと思っているわけではないが。
お絵かきソフト「Aquamarine Painter」を作ってみた
平均の公理として適切なものはなんだろう。
f(x, x) = x
.f(y, x) = f(x, y)
.f(k x, k y) = k f(x, y)
.x < y ⇒ f(x, z) ≦ f(y, z)
.それっぽくはあるが、過不足ないか分からない。あと、スケール不変性はたとえば asinh((sinh(x) + sinh(y)) / 2)
みたいな関数では成り立たない。こういうのを許容したい場合もあるかもしれない。そもそも定数倍が定義されない場合もあるか。
Web にやたら冗長な文章がはびこっていることで、自分の文章が不必要に冗長になっていないか妙に気にしてしまう。
あの冗長な文章は滞在時間を引き伸ばして検索ランクを上げるためのテクニックである (たぶん)。「ネットでは四行以上は読まれない」とよく言われていたことを考えると、「いかがでしたか」まで読む人がたくさんいるのは意外でもある。
ザッカーバーグやよく分からん投資家の撤退後も VR HMD を作り続けるメーカーはあるだろうかと懸念していたが、それは杞憂になりつつある気がする。
ある領域のエキスパートでも、そのちょっと外の領域で初歩的な間違いを犯すことはよくある。だからといって「専門外のことについて発言するのは控えよう」となるのはおかしい。それは普通のことなのだから、初学者と同じ立ち位置でどんどん間違えて学んでいける雰囲気であってほしい。
202500600 こういうのって気づいた直後は興奮するが、一日経つと常識になる。
ただ、 x = 0
の真ん中が幾何平均なのは依然として直感的でないというか、少し意外な感じがする。
min(a, b)
と √(ab)
をつなげる mean はなんだろう。
間に調和平均を挟んで
lim[n→∞] [(a^-n + b^-n) / 2]^(-1/n) = min(a, b)
こうか。つまり、
f(a, b; x) = [(a^x + b^x) / 2]^(1/x)
で全ての平均はつながっている。きれいな関係だ。調べてみると、これはヘルダー平均というらしい。
Backlinks: [202500601]
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2017 年の本 (執筆時期はたぶん 2010 年くらい) を読んでいたら、物の値段の感覚が思った以上に今とずれていてびっくりした。相対的な高低もかなり変わっている。調べてみると、 2010 年あたりは消費者物価指数が極小値だった時期らしい。
Web では「〇〇は素人の自分でもできますか?」という質問に対して、「X やら Y やらがうんぬんかんぬんで素人がやるのは危険。プロに頼め」みたいなアドバイスが多いのに、家のセルフビルドに関しては「大丈夫。問題なくできるよ」みたいなページが多くて笑ってしまう。知識も技能も 0 から家を自力で建ててしまう人というのは、それくらい楽観的で失敗を楽しめる人ということなんだろう。
セルフビルドの話を読んでいると、「いずれ自分も家を作りそう」と思う。「いずれ」とか言っている時点でアレな気がするが。
しかし自分に向いている (もの作り) 部分とまったく向いていない部分 (土地購入) が両極端だ。やるとしたら土地選びも建築も一回失敗する前提でいきたいが、自分で手を動かす範囲外のところに後戻りの難しい要素がいくつかある。土地は確定させないと難しいかなあ。つまり「ここにずっと住みたい」という土地を見つけないと性格的にも決断できなそうだが、そんな未来は見えないな。
人が亡くなった時点で写真や日記が残っていることはたぶん多くて、でも曾祖父母世代の遺品が残っているという話はほとんど聞かない。 3 世代もすれば歴史の資料になり得るが、逆にいえば資料になるくらいめったに残らないということでもある。
現代だと例えば、自分のものをまとめた Web サイトを作って、「このサイトをずっと残してくれ」と言い遺して亡くなり、数か月後にはあっさりとサーバー料金延滞で消える、みたいなことはありそう。悲しい気もするし、それが健全だという気もする。
私たちは旅行に行ったとか何かの記念日だとか、そういう特別なときに写真を撮る。でも、たとえば数百年後に歴史の調査で写真が発見されたとして、資料として欲しいのは何の変哲もない日常の写真だと思う。
これは実際のところ、自分自身にとってもそうではないか。一生に一度しか行かない場所の写真はあっても、自宅の写真が一枚もない、ということは普通にあるわけだ。自分が N 年前に毎日どういう生活を送っていたか、たぶん忘れていることがたくさんある。
ということを考えていたのだが、私はそもそも自分の記録として写真を撮っていないな。
山奥に DIY で家を作っている人の動画を見た。土地を開墾することの大変さを知ると、「先祖代々の土地を守る」的な考えも少しだけ理解できる気がする。その土地は単なる区画ではなく、複数世代に渡って膨大な労力をかけて作られた作品なわけだ。
ヒトが物を持ち上げて静止しているとき、素朴な力学的意味でのエネルギー消費はないが、実際には筋肉がかなりのエネルギーを消費している。このメカニズムは単純ではなく、ちゃんと考えるには筋肉の構造に踏み込む必要がある (らしい)。
見方を変えて、モーターで駆動されるロボットのエネルギー消費はどうなっているだろうか。モーターの回転を力学的に止めると逆起電力が 0 になり、コイルを含めた回路の内部抵抗にすべての電圧がかかる。単純に電池をモーターに繋いでいるとき、回転を止めると電力消費はむしろ最大になる。
もちろんの実際のロボットは静止時に最大のエネルギーを消費するわけではない。電流に比例したトルクが発生するため、持ち上げた物を静止させるには、トルクが釣り合うところまで電圧を下げて制御することになる。
工学的な最適解がヒトの美的感覚と一致するとは限らないと思うが、個人的にはやはり装飾美より機能美に惹かれてしまうなあ。
しかし冷静にみると、高性能な工業製品はごちゃごちゃと複雑な構造をしていることの方が多い気はする。現代のコンピュータが美しいか? 局所的に美しい部分はある。全体としては汚物だ。
ジェット旅客機の主翼って昔はわりと直線的なデザインだったと思うのだけれど、ふと気づくと独特の機能美を感じる曲線的な形状になっている。